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大阪の材木屋はすごい

本当に長い間サボっていたブログを再開します。(本当にダメですよネー)

そこで少し前になりますが7月に組合の旅行で我が郷土の偉人で冒険家 植村直己さんの故郷兵庫県豊岡市にある「植村直己冒険館」に訪れた時の事を報告いたします。 ※私は大阪生まれではありますが、人生の殆どが兵庫県民ですので今でも心の故郷は兵庫県西宮だと思っています。(色々と使い分けますが)

植村直己さんが冬の北米最高峰(アラスカ)のマッキンリーで消息を絶った時(1984年)高校生で、その時初めて兵庫県出身の方だと知りました。死後彼の生まれ故郷である、兵庫県城崎郡日高町(現在は豊岡市)に「植村直己冒険館」が出来ていた事はもちろん随分前から知っていましたが、今回初めて訪れるチャンスに恵まれました。



そこで、私はすごい事実を知る事となりました。それは日本人でエベレスト初登頂者は植村直己さんと私はずっと思っていましたが、実は彼よりも数歩先に登頂をはたした人物がいたのです。その方は松浦輝夫さんで、実はこの方大阪の材木屋さんなのです。私も直接は存じ上げないのですが、この方が大阪の材木屋さんで登山家である事もエベレスト登頂に成功した方であるという事も存じておりましたが、日本人初であるという事まではお恥ずかしい事ですが知りませんでした。

しかし これだけであればただ材木屋が数歩先に登頂しただけの材木屋同士の自慢話で済んでしまうのですが、実はこれには美談が存在している事に私は感動しましたので、ここで紹介させて頂きたいと思います。


初登頂当時(1970年5月11日)植村直己さん28歳 松浦輝夫さん35歳二人が日本山岳会の多くのエベレスト登山隊から選ばれた最終の登頂アタック隊から更に選ばれ登頂を目指したのですが、山頂直前で先に歩いていた植村直己が突然立ち止まり、後を歩いていた松浦輝夫さんが追いつくのを待ったそうで、心配した松浦さんが「どうかしたのか」と問いかけた所「先輩が先に行って下さい」と言い返したそうで、松浦さん自身植村直己さんが先に登り後方を松浦さんが行くのはごくごく当たり前のルール(役目)だったそうで。最後まで自分の役目をはたした上で最後の最後に先輩に先に行く様に言い、極限の中でも「日本人初登頂」と言う栄光を先輩と言う事だけで私に譲ったと松浦輝夫さんのビデオ証言で知る事が出来感動しました。

そしてこの美談には続きがあり登頂を果たした植村直己さんは持っていた登頂の証拠となるフイルムを抜いたカメラも含めて下山には必要でない荷物を全て山頂に残し持てるだけの山頂の石をリュックに詰めたそうで、松浦さんが「そんなに持って降りてどうするのだ」と聞くと植村さんは「登頂を果たせなかった多くの登山隊の仲間に持って帰る」と言ったそうで、この時松浦さんは植村直己とは人の気持ちをとても大切にする人間だと思ったそうです。 しかし 多くの登山隊を率いて荷物の運び役に使いほんの数人しか登頂を経験できない方法に植村自身限界を感じ、彼がこの後単独登頂にこだわったのは、こういった経験からだそうです。

この様な素晴らしい偉人の、語りべが同じ大阪の材木屋であることを知り有意義な旅行となりました。





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